第1部 南カリフォルニア
 第3章 サボテンときどき雪(2)
  4月27日(日)マウント・ラグナ〜5月11日(日)ビッグベアシティー


5月3日(土)
 6時半起床。夜半から雨。どうも空気が湿っていた気はしたが・・・、一面霧の中、見通し立たず。7時45分出発。泥だらけでたまらん。/午前中は涼しいので良い。ペースも快調。/稜線に出ると風・あられ激しく、ペースも鈍る。/体力を奪われる。秋の北アルプスの稜線のよう。/最後3マイルが泣きそうにきつい。こんなにきつい歩きは久しぶりだ。今までの人生で一・二を争うかもしれない。/18時過ぎ、峠の木陰にテントを張る。風の音がやかましい。/しかし、因果な遊びをしているものである。昨日は灼熱、今日は寒さに震えるとは。カリフォルニアのストームの恐ろしさ。/人間の体は丈夫に出来ているんだなあ・・・/明日は街に降りられる。早起きして、さっさとモーテルに入ろう/ Today 16.8Mi Total 170.5Mi
5月4日(日)
 6時起床。昨夜はフリースを着て寝ても、寒さで何度も目が覚めた。/テントが凍っている。一晩中風と雨は強かった。/恐る恐るテントの外をのぞくと青空が垣間見える。/お茶を入れて、クリフバーとカロリーメイトの朝食。/濡れた靴に足を入れるのは気合が必要だ。/昨日と一転して天気はいい。しかし、日陰に入ると雪がガチガチに凍っている。/今日はまだ誰もトレイルを歩いていないらしく、足跡も無い。一歩一歩、雪に足を蹴りこみながら進む。/途中で積雪のためトレイルを見失う。後からきたおじさんと地形をたよりにクロスカントリー。/1330サドルジャンクション、1430トレイルヘッド着。助かった。・・・
/Today 9.7Mi Total180.2Mi

 5月3日。歩きながら僕は、この日付を決して忘れまいと心に誓った。今までの人生でもっとも辛い歩きを経験した一日としてだ。嫌な予感はしていた。前日の晩、砂漠の真ん中にもかかわらず妙に空気が湿っていて、天気が変わるのではないかと思っていたが、案の定夜半から雨となった。泥まみれになったテントを不承不承パッキングして歩き出す。それでも、午前中はまだ良かった。いつもに比べ気温が低い分ペースもむしろあがったくらいだ。

 しかし、午後からトレイルがサン・ワシント山脈(SAN JACINTO MOUNTAINS)にさしかかるころになると、状況が一変した。この日の行程は標高約1500mの谷沿いから、一気に2100m超の山頂近くへ登るコースだったが、ちょうど稜線に差し掛かるあたりで天候は本格的に荒れだした。5月のカリフォルニアに典型的だと聞かされてきた遅いストーム(低気圧嵐)の襲来だ。トレイルは完全に雲の中に入り、視界はせいぜい50mほど。さえぎる物の無い稜線には正面を向いていられないほどの風が吹きつけ、冷たい雨が容赦なく叩きつける。日本の山にたとえるならば、秋から初冬の北アルプスや谷川岳で雨にたたられたといったところだろうか。気温は5〜6℃、風のために体感気温は氷点下近い。

 こんなときに限ってあてにしていた水場も見当たらず、稜線上をキャンプ地を探して歩き続ける。天気さえ良ければどこにテントを広げてもいいのだが、この風では立ち止まることすら覚束ない。予想外の気象条件に、精神的にも肉体的にも疲労が激しく、あたりはどんどん暗くなる。泣きそうな、とはこんな状況を言うのかと思った。そこで、冒頭の記憶に思い至ったわけである。

 結局この日は潅木に囲まれたスイッチバック(つづら折)の折り返しの部分にかろうじて風を防げるスペースを見つけ、なりふりかまわずテントを張ってもぐりこんだ。寒さで歯の根もあわず、危険なのはわかっていたがテントの前室部分で炊事をして暖をとった。濡れた雨具を隅にぶん投げ、乾いた衣類全てを着込み、お茶を沸かして煙草に火をつける。煙草を吸えて本当に良かった、とこの日しみじみと思った。

 昨日は気温30℃以上の砂漠、今日は氷点下の稜線を行く。この過酷な環境の変化に、僕の身体は痛めつけられ、悲鳴を上げる。だけど、これこそが人間として、生物としての本来の反応なのだ。オフィスでも家庭でも、一年中23.5℃に管理された部屋の中にいたのでは決して感じることの無い、生きている僕の内なる声、言い換えれば野性の声なのだ。唸るような風の音は一向に静まる気配を見せない。胸の内側に広がる煙の暖かさ。その温もりを抱きしめるように膝を抱えながら、僕はぼんやりと風の音を聞いていた。
5月4日、天候が回復したあとの写真。5月3日の写真は見当たらない。霧で何も見えなかったので撮らなかったのか、撮る余裕が無かったのか。おそらく両方だろう。上の文章で谷沿いから稜線へ、と書いたが谷といっても山と山と間の平野に近い。
一夜にしてトレイルに雪。このあたりは土が見えているぶんだけいいほうで、傾斜のきつい北側斜面に降った雪は完全に凍り付いて歩きづらいことこの上なかった。(その写真を撮る余裕が無いほど、と言えばお分かりいただけるだろう)
5月4日夕刻 イーディルワイルドの街で。ターキッツ・インというPCTハイカーだらけのモーテルに泊まる。同じくPCTハイカーのトロール&ラフィータフィー夫妻(本名不肖)の部屋をシェアさせてもらった。夜はワインとポーカーで盛り上がった。
5月5日(月)のキャンプ。標高2000mを越えるとまだまだ雪が残る。日が沈むとぐっと冷え込んだ。
SAN GORGONIO PASSを見下ろす。インターステート10と111が分岐するあたり。パームスプリングスというリゾート地のちょっと手前。(わかる人にしかわからないですね)トレイルはここからいったん谷底に下り、また向こうの白い雪を頂く山へと登り返す。

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