プロローグ 旅立ちまで(4)

<2001年6月24日(日)〜2003年4月15日(火)>


2003年1月9日(木)14:36 千葉県浦安市
・・・バックパッキングを趣味として持つ事には 何ら反対しない。 社会生活の中で どう取り入れていくかは君の才覚になるだろう。ただ一人の社会人として生きて行くべき時になっても それに気付こうとしない事が残念だ。
親として 今の仕事にこだわる訳ではないが 一つの事も満足にできず 評価もされずに 好きな事に逃げ出すような事は 自分の生き方として恥ずかしくないのかとも思う。
若い時にしかできない事なんて言うものは少ない。
PCTを歩く事は 極端に言えば 60になってからでもできる。それが今の自分の全てというのはあまりにお粗末とおもえる。
今週末に 退職の話をしたいような事を言っているが 父親として もう一度よく考えるべきといわざるを得ない。・・・

<父親からのE-mail・抜粋>

2003年1月10日(金)4時4分 福岡県福岡市 
・・・僕の到らなかった点はこうした自分と社会の係わり合いや、自分にとって社会に出て働くことの意義を十分に思考することなく安易に就職してしまったことにあると思う。結果的に今の会社には大きな迷惑をかけてしまうことになる。この点については思慮が浅かったと反省している。
 しかし、憧れにすぎなかったPCTへの挑戦をいまこうして真剣に議論し、行動していく間で次第に自分の中で固まりつつあるものがあるのを感じています。おそらく、次に就職する際には会社のレベルは下がるかもしれないが、より納得した良い就職ができると思うよ。
 よく考えれば考えるほど、僕はここで会社を辞めて、自分の価値観にしたがってPCTへ踏み出すべきだと思う。今まではパパの価値観にしたがってここまで幸福に過ごせてきた。だけど、『いつまでもあると思うな親と金』と昔の人も言ったように、親が敷いてくれたレールをいつまでも走っていられるとも思わないしね。

無職になったり、収入が減ったりすることに対して世間がとやかく言うであろうことには堪えられると思う。だけど、家族から『嫌なことから逃げ出している』としか評価されないとしたらそれはとてもつらいことだ。少なくともそうではないことだけは説明しておきたい。・・・
<父親への返信E-mail・抜粋>


 この日、既に僕は上司に退職の意向を伝えていた。家族の了解は得られていなかった。正月に帰京した際に切り出してはいたが、到底はいそうですかと理解されるものでもなく、その後父親からは叱責のメールが届いていた。

 この晩、僕は父親へ宛てて長いメールを書いた。何度も書き直し、慎重に言葉を選びつつ、時代がかった覚悟のようなものを込めて気持ちを綴った。これで理解されなければもうどうにもならない、帰るところが無いかもしれないとの思いもよぎった。それでも、僕はPCTに行きたい、行くべきだとの思いは揺らがなかった。僕にとってPCTへの挑戦とは単にバックパッキングというスポーツの最高峰を極めるということだけでなく、自分の人生を自分の意志でコントロールするという意味で重要だった。勿論、今まで他人に支配されていたと言う意味じゃない。ただ自分で考えることをしてこなかっただけのことだ。あの時、僕は恐らく初めて自分の『明確な』意志で人生をコントロールしていたんだと思う。
 明日、職場でこのメールを読む父の顔を想像しようとして、やめた。目が冴えて眠れず、天井を見上げながら、いつか僕も自分の子供からこんなメールを受け取る日が来るのだろうか、なんて考えていた。

 次の週末、実家に戻った僕に、父はもう何も言わなかった。夕方の飛行機で福岡へ帰るというのに、母は3時過ぎから夕食を並べてあれも食べろ、これも食べろとうるさかった。祖父母も全部聞いたようで、笑って僕を見送ってくれた。

 帰りがけ、父が僕を呼び止めた。体調にだけは気をつけろ、仕事はいい加減にするな、と。僕は素直に返事をして、空港へと急いだ。

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